2019年8月18日日曜日

熱海へGo!

赤坂を朝9時半頃に出て熱海へ向かいます。

ジョルダンで時刻表を調べてみると、東京から熱海で新幹線だと一人4390円、所要時間37分、伊豆の踊子号だと一人4000円、一時間21分、普通の東海道線だと1940円、一時間53分。

ほかの友達ファミリーは車で行くということで。車には5人までしかのれないのでもう定員オーバーなので私たちは電車でいくよって話になってました。

熱海にお昼ぐらいには着くようにということなので、急ぐこともないし息子も今年から大人料金を払わなくてはいけないので節約して東海道で行くことにしました。

平日の昼間だし座れるでしょうと思っていたんですけど、同じことを考えている方が多かったらしく結構混んでいます。ちなみにこの東海道にも指定席があって、事前に席を買うと一人プラス780円だったようです。これにしておけばよかったと後悔。ま、次回への反省ということで。

東海道線は東京駅が始発ではなかったらしく、結構混んでいました。子供には席があいたら適当に座るのよーと言っておき、ちょっとずつ空いて行き、茅ヶ崎の前ぐらいには3人揃ってボックス席で座れました。電車の中で食べようと思っていたおやつやおにぎりも開ける感じじゃなかったですね。

時差ぼけの影響で電車のなかで寝る娘。と眠れない私。ひたすらスマホを見る息子。

車で向かうチームとラインで大室山へ行くというので行こう、ということになりますが、土地勘がなく電車とバスでリフト乗り場へ行くのが時間がかかりそうだったので私たちは熱海で適当に時間を潰してから宿泊地の伊東で待ち合わせしてくれということになりました。

熱海はご存知高級温泉街として有名ですが、過去私は一度か2度ぐらい来たことがあります。坂が多くてヒーヒーしました。なので伊東にいくまで約3時間なにしよう、、ということで調べたのが、

1)熱海駅前で足湯

その前に重すぎる荷物を一部預けようと駅前のビルにサインがあったので荷物預かり所に行ったらお休み。。同じビルの人がコインロッカーがあるというので預けます。

足湯は本当に駅前にあって結構賑わってます。小さい足拭き用タオルも100円で売っていましたが、持ってきたやつを使おうと。

駅前の足湯は家康の湯というらしい。





娘は喜んで入るけど息子は入りたがりません。ティーンは扱いがむずかしいですの。

商店街の前の機関車。

足湯の後は駅前の商店街のどこかでランチをと物色します。



うちの息子は偏食でラーメン屋などを好みますが、昨日ラーメンを食べたばかりなので刺身定食もマグロしか食べれないしーと結構面倒。

しかも観光地なのでお値段も高めです。結局すこしリーズナブルだった中華料理屋へ。頼むのは唐揚げとチャーハンと確か私は日替わり定食(忘れた)おいしかったです。ローカルに愛されている感じの食堂。

その後は商店街をフラフラと歩き温泉まんじゅう(100円)を食べ、

金色夜叉の顔ハメのやつで写真をとり。。(顔けしてます)私この話しらなかったんですけど、先ほどウェブであらすじを読みました。へー、そういう経緯でこういうことになったんですな。。

駅の上の百均によったりしてそろそろ伊東に向かいます。

観光は足が疲れますねー。歩きやすい靴でいきたいものです。



この話で熱海は有名になったとか。




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2019年8月17日土曜日

東京 赤坂で一泊

日本里帰り記録 その一

日本に子供二人連れてこの夏里帰りしました。

着いたその次の日に友達家族と伊東へ行くことになっていたので都心で一泊と予約サイトでちょいと安めの宿をと取っておきました。

ホテルでなく、民泊みたいなところで、洒落たところでもなんでもないけれど便利な場所にあるし、レビューもいいからここに決定。ホテルだと子供二人といえど結構もう大きいので、きついベッドに寝るのはいやだったので一人ひとつシングルベッドがあるところが魅力でした。この部屋は二段ベッドが二つあってその辺はいいかな、と。

長年東京に住んでいたけれど、赤坂付近、というか山手線の内側は疎い私。赤坂に着いたのは夕方5時ぐらいで、仕事帰りの人で溢れていました。



近代的なビルと昔からの商店街が融合したところ、という印象です。

スーツケース二つは実家に送っていたのでこれから4日分の着替えなどを入れた小さめのスーツケースと、リュックを一人ひとつ背負って宿に着きます。

地下鉄の階段が辛い。あとでみたらちゃんと上りのエスカレーターがあったけど、わからなかったー。東京あるある、車生活に慣れている私らに徒歩の暮らしは大変ですー。

チェックインのときちょうど人がいなくてあたふたしたけど、やっと部屋の中で一息。さてとスーツケースを開けようと思ったら大変、小さな鍵が確か100円ショップで昔買ったやつなんだけど開かない!中が錆び付いているのか、壊そうとしても意外と丈夫でこわれないー。どうしよう。。

宿のおじさんに相談してみたら、「あー、ちょっと見てみます」といってくれて、小腹が空いていたので近くのラーメン屋で食べることにしました。

食券を買ってカウンターに座るタイプの近くのラーメン屋さんでご飯。日本の食堂は安くておいしいなーでも荷物のことが気になる。。

ご飯が終わって宿に戻っておじさんにどうでしたか??と聞いてみると、なんと友達の鞄屋さんを訪ねて鍵を壊してくれてました!

助かったー。。

宿自体は布団も硬かったけど、ほかのところに泊まってたらスーツケース(布製)を破っていないとダメだったでしょうから、本当助かりました。ありがとうおじさん!!

さて、近くにコンビニもあり、おやつを買っていたので食べて、旅の疲れもあり9時には寝てしまいましたが、案の定夜中の2時に起きてしまいました。。

5時ぐらいになって空がちょっと明るくなったかもーなときに朝の街をうろついてみようと出てみました。カラスとこんなときにも人がちょろちょろ歩いてます。

この時間から空いているのは。。

吉野家。ここで朝ごはんを食べました。3人分で1700円。安いし美味い〜。




向かいに座ったバンドマンが青春ってかんじですね。

そして比叡神社へ参拝。





テレビでみたことありました。エスカレーターがあってよかった。

この時点で朝7時。何人か参拝してる人がいました。

仕事運と恋愛運をしっかり頼み込んできました。

その隣にスポーツカーの会社?が。



テレビ局のTBSもあったので周りをうろついてみたけど、一般客が入れるのかどうかわからなかったので退散。


宿に戻ってこれから友達家族と待ち合わせで熱海に向かいます。



今度の旅には新調したい!


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2019年8月6日火曜日

原爆が広島に落とされた日と展示をみたアメリカ人ハーフの子の反応。



子供と夏に里帰りをしたとき、バスの乗り継ぎの間にちょっとだけ時間を持て余したので静岡県庁のビル21階にある展望室へ行ってみました。

7月後半でこの時期になると戦争、原爆の企画がよくある日本。

アメリカ生まれ、ハーフの娘と息子は何度もこの時期日本に来ていたのですが、このようなイベントに出会ったのは意外にもこれが最初。


テレビには裸足のゲンのアニメが放映されていました。

被爆したおじさんが包帯巻きになり、うじ虫が湧いていてゲンがおじさんを元気づけているところでした。

高校生が描いたあの日(もしくはその直後の)広島というのも展示されていました。

爆発を受け皮膚が火傷で剥がれて、ゾンビ状態で歩き回る人々の絵や、一瞬で焼け焦げた体の絵、水を求めさまよう様子、写真もあり、有名な死んだ妹をおぶり、母親が埋められるところをじっと見つめる少年の写真もありました。

ここまで広島の原爆のことをしっかり表したものを見たことがなかったのでしょうね、ショックを受けていました。

下の娘(8歳)は

「誰がやったの?」

「アメリカ」

「えーー!日本はそれを許したの?」

「そーなのよ。」

「えーー。信じられない。」

その後も

「なんで戦争が起こったの?」

「えーー、日本がハワイをちょっと攻めちゃってさ」

みたいなやり取りをしました。

「なんというか、ちょっとビンタしたらボコボッコにやられてトドメを刺された感じかね。」

と私は言いました。

「ついでに新兵器使って実験してみるか、みたいな。」

表面上平和な今現在。

裏でどんなやり取りが行われているのかはわかりませんが。

世界のどこかで紛争は行われていて、広島の時と同じような目にあっている人々も実はいるのかもしれません。

核の脅威は今もあり続けます。

戦争で苦しむのは一般庶民です。

戦争の記憶がなくなりつつある今。

あれからたったの70年ちょっとしか経ってないなんて驚きです。

世の中は変わりました。

ちょうどフィリピンで戦後30年潜んでいた小野田少尉のことがテレビでやっていて、彼が戦争中そのまんまの価値観をちょいとだしたら(靖国神社に奉納する云々)世論からバッシングを受けショックを受けていたこと、翌年ブラジルに行ってしまったことを知りました。

何が正しいと考えるべき、みたいなことって案外曖昧で、巧妙に操作させられてたりもするんでしょうね。

ただ、戦争は一般人を巻き込み、多大な被害が出る。

戦争がないとやっていけない人々もいる。

というか、平和な世の中では儲からない人がいる。


ってこと。




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2019年8月3日土曜日

ライオンズゲートが近いということで。

時差ぼけか昨日はなっかなか眠れなかった。

もちろん母のこととかこれからの不安とかもあって眠れなかったのもあるけど。

夜中はろくなことを考えないので寝るのが一番なんだけど、なんせ時差ぼけと運動不足で。日本にいて車を持っていないとしぜんとたくさん歩きますよね。

いつも眠れないときに聞く瞑想系のYoutubeのビデオも最後まで聞けてしまいました。しかも二つも。

で、ホロスコープに詳しい人々は8月8日にはライオンズゲートが開く、と言っております。

ライオンズゲートが開くときには霊的世界と繋がりやすくなるということです。

そしてホロスコープ系の人のyoutubeによると、自分を出したい!という欲求が出るようです。

私はSNSなんかもアカウントはもっているけどあんまり積極的に使ってはいなくて、

友達に向けてメッセージなんかもあんまりやってなかったりします。(どこどこでランチ食べたー的な)

このブログもリアル知り合いには教えていないし。(数人にしか、しかもその人もあんまり見ていないので書きやすい)

人付き合いも内向きです。。

でもこの夜中にはそんな自分に危機感を感じてしまいました。。。

別にSNSをやらなくては!と思ったわけではなく、

もっといろんな人とリアルに繋がりたい、と思ったんです。

今私がいなくなってもあんまり誰も気にしなそう。。と思ったら悲しくなって。。

もっと自分を出していこう、と思いました。

ライオンズゲートオープン時期だからかな、なんて。

あと、不思議なことが。

私は出生時間がわからなくて、母に聞いてもお昼頃、としか覚えてなかったのですが、眠れなかったときなんとなく、12:43という数字が閃きました。

ホロスコープのことをちょっとインターネットなんかで調べて自分のチャートを12時に設定して作った結果には違和感があったのですが、この時間にして調べてみるとなんかしっくりくるような。

例えば、天体が前は7ハウスにあったのが6がハウスに移ったことでのしっくり感。なんせ私バツイチなんで。

このライオンズゲートの前後10日間は勤めて瞑想の時間をとったり、水を飲んだりすると良いそうですよ。






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2019年8月2日金曜日

ママが好きだったもの

私はミーちゃんハーちゃんだからね、

とママはよく言っていた。ミーハーという意味である。

確かに彼女が好きだったのは、

山口百恵

郷ひろみ

その影響で一時期松田聖子、しかし破局後は嫌いになる

美空ひばり

かなりあとになってなぜかジェームスディーンにはまりビデオと写真集を買え揃えた時期がありました。

ロンバケからキムタク、というかロンバケのキムタク

その後は特にどハマりはしなかったけれど

どれも王道です。

一時期一番ホットだったのがジェームスディーン。同じ写真に写っているおばさんにヤキモチというか羨ましい、といっていました。確かにイケメンですけどね。





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ママとの思い出

一番古い私の記憶はなんだろう。 

ある日私はポンキッキだったかを見ていて、

ママ(小さい時うちでは両親をパパ、ママと呼んでいた。当時は少数派だった。)

は私が見ていない時、ゴリラになっていたらどうしよう、と思った。 

ママ!と呼んで振り向いた。

いつものママだった。

ほっとした。

しばらくしてもう一回呼んだ。

やっぱりママだった。

 そんなやり取りを何度かした。

ママは同じように答えてくれた。 

ポンキッキに出てくるペギー葉山のお説教がちょっと怖かった。

あの人だけトーンが違った。

ママは朝の連続ドラマを見ていてたまに涙ぐんでいた。 

私はメルモちゃんを真似てラムネを食べて大きくなったり小さくなったりの遊びをした。

私には兄が二人いて、2学年上の兄と5つ上の兄は小さいころしょっちゅうケンカをしていた。 

ママはあまり手先が器用ではなかったため、待ち望んでいたはずの娘の私の髪の毛をおさげにさえできなかった。

ママは幼い頃母親を亡くし、兄弟もめちゃくちゃ多かったので、女の子っぽいことを教えてくれる人がいなかったらしい。 

上の兄の影響で私は小さい頃自分のことをボクと呼んだ。
しかし確か兄二人は自身をオレと呼んでいたのかもしれない。

ボクはピンクレディーなどの女の子っぽいことも好きだった。 

うちは社宅に住んでいて、真ん中の兄が幼稚園へ行き始めるとよくママとボクはある時は二人で、ある時は近所の人たちと一緒に歩いて20分ぐらいしたところのスーパーや市場へ買い物に行った。 

やがて私も幼稚園へ行くようになった。

内弁慶な私は他の子の様子を伺い、好きな色はなんですか?と聞かれると本当は黄色が好きだったのにみんな「赤」と答えていたのでボクも「赤」と言った。 

折り紙で折ったチューリップを四角い紙の真ん中にノリでくっつける工作をした。皆同じものを作った。 

ボクはチューリップの右上に鳥だか蝶々だかを描いた。

隣の子が、「そんなもの描いちゃだめなんだよ」と注意した。

そうなのか、と反省した。

その子の言うことを鵜呑みにしたのだ。 

気の弱いボクは気の強い子たちにちょくちょくいじめられた。

でも友達もいた。 

ある時うちは幼稚園から遠いところへ引っ越すことになった。

社宅だが市内の一軒家に住むことになった。 

幼稚園バスで通うことになる。初日の帰りに、Teeちゃん(ボク)は白色バスね、と言われたのに友達が青色バスに乗ったので同じバスに乗ったら一人残り幼稚園に帰って他の先生にうちまで乗せてもらった。

ママはよく泣かなかったね、と言ってくれた。 

幼稚園バスでも一番とおかったボクは卒園からあと半年というところで幼稚園をやめることに。

同じ並びの社宅の近所の子と遊んでもらった。

大きな岩がゴロゴロ置いてあるところに行って遊んだりと自由気ままにしたけど、そろそろ小学校に入学です。 

裁縫の得意なおばあちゃん(父方)が縫ってくれた黄色いワンピースで迎えた入学式。

マジョリティーを気にしたボクはクラスのほとんどの子らが赤いワンピースを着ていることにショックを受ける。

地元の幼稚園に通っていなかったボクは顔見知りが誰もいないことでか心労か、いきなり入学式の次の日に肺炎で入院してしまった。 

ママはボクが小学生になってからスーパーでパートを始めた。

マウンティング傾向のある同僚がいたらしく、よくこんなこと言われた!とその日あったことを話してくれた。

ママはその頃運転免許を取った。意外と実地試験もすんなり通ったらしく、彼女をディスっていたクラスメイトは落ちたらしい。 

肺炎以降、ボクは風邪をこじらせたりで病院通いが多くなってしまった。忙しい中ママはよく連れて行ってくれた。 

学校の近くの耳鼻科で鼻洗浄をしてもらったのを覚えている。

その後喘息に発展していくのですけど。 

一軒家の社宅は売りに出されることになったため、

元いたアパートの社宅に引っ越すことになった。

 まずはこのくらいで一旦休憩します。

 


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おかあさんがいなくなってしまった。

おかあさんがいなくなってしまった。

いるのが当たり前だと思っていた。

癌の再発がわかってからたったの1年半。

お父さんがいなくなってしまってからたったの二年。

その間にも私の話を聞いてくれた、私も聞いた、あんな話こんな話。

最後の最後まで心配かけてしまった。

最後に会えて良かったけれど

最後の最後にはいてあげられなかった。

あまりに遠すぎて

式にはいけなくて

なので明日式の間おかあさんとの思い出を振り返りたい。

一人でちょっと飲めないお酒をのみつつ

明日のためにお花も買った。

おかあさんは生きていた。幸せな時の方が多かったはずだ。私はあなたの娘でよかった。
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