2019年8月2日金曜日

ママとの思い出

一番古い私の記憶はなんだろう。 

ある日私はポンキッキだったかを見ていて、

ママ(小さい時うちでは両親をパパ、ママと呼んでいた。当時は少数派だった。)

は私が見ていない時、ゴリラになっていたらどうしよう、と思った。 

ママ!と呼んで振り向いた。

いつものママだった。

ほっとした。

しばらくしてもう一回呼んだ。

やっぱりママだった。

 そんなやり取りを何度かした。

ママは同じように答えてくれた。 

ポンキッキに出てくるペギー葉山のお説教がちょっと怖かった。

あの人だけトーンが違った。

ママは朝の連続ドラマを見ていてたまに涙ぐんでいた。 

私はメルモちゃんを真似てラムネを食べて大きくなったり小さくなったりの遊びをした。

私には兄が二人いて、2学年上の兄と5つ上の兄は小さいころしょっちゅうケンカをしていた。 

ママはあまり手先が器用ではなかったため、待ち望んでいたはずの娘の私の髪の毛をおさげにさえできなかった。

ママは幼い頃母親を亡くし、兄弟もめちゃくちゃ多かったので、女の子っぽいことを教えてくれる人がいなかったらしい。 

上の兄の影響で私は小さい頃自分のことをボクと呼んだ。
しかし確か兄二人は自身をオレと呼んでいたのかもしれない。

ボクはピンクレディーなどの女の子っぽいことも好きだった。 

うちは社宅に住んでいて、真ん中の兄が幼稚園へ行き始めるとよくママとボクはある時は二人で、ある時は近所の人たちと一緒に歩いて20分ぐらいしたところのスーパーや市場へ買い物に行った。 

やがて私も幼稚園へ行くようになった。

内弁慶な私は他の子の様子を伺い、好きな色はなんですか?と聞かれると本当は黄色が好きだったのにみんな「赤」と答えていたのでボクも「赤」と言った。 

折り紙で折ったチューリップを四角い紙の真ん中にノリでくっつける工作をした。皆同じものを作った。 

ボクはチューリップの右上に鳥だか蝶々だかを描いた。

隣の子が、「そんなもの描いちゃだめなんだよ」と注意した。

そうなのか、と反省した。

その子の言うことを鵜呑みにしたのだ。 

気の弱いボクは気の強い子たちにちょくちょくいじめられた。

でも友達もいた。 

ある時うちは幼稚園から遠いところへ引っ越すことになった。

社宅だが市内の一軒家に住むことになった。 

幼稚園バスで通うことになる。初日の帰りに、Teeちゃん(ボク)は白色バスね、と言われたのに友達が青色バスに乗ったので同じバスに乗ったら一人残り幼稚園に帰って他の先生にうちまで乗せてもらった。

ママはよく泣かなかったね、と言ってくれた。 

幼稚園バスでも一番とおかったボクは卒園からあと半年というところで幼稚園をやめることに。

同じ並びの社宅の近所の子と遊んでもらった。

大きな岩がゴロゴロ置いてあるところに行って遊んだりと自由気ままにしたけど、そろそろ小学校に入学です。 

裁縫の得意なおばあちゃん(父方)が縫ってくれた黄色いワンピースで迎えた入学式。

マジョリティーを気にしたボクはクラスのほとんどの子らが赤いワンピースを着ていることにショックを受ける。

地元の幼稚園に通っていなかったボクは顔見知りが誰もいないことでか心労か、いきなり入学式の次の日に肺炎で入院してしまった。 

ママはボクが小学生になってからスーパーでパートを始めた。

マウンティング傾向のある同僚がいたらしく、よくこんなこと言われた!とその日あったことを話してくれた。

ママはその頃運転免許を取った。意外と実地試験もすんなり通ったらしく、彼女をディスっていたクラスメイトは落ちたらしい。 

肺炎以降、ボクは風邪をこじらせたりで病院通いが多くなってしまった。忙しい中ママはよく連れて行ってくれた。 

学校の近くの耳鼻科で鼻洗浄をしてもらったのを覚えている。

その後喘息に発展していくのですけど。 

一軒家の社宅は売りに出されることになったため、

元いたアパートの社宅に引っ越すことになった。

 まずはこのくらいで一旦休憩します。

 


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